御守大学

御守りの知識が身につきます

【講義2-1】御守りの成り立ちについて①

御守りの歴史は古く、体系化されたモノとしては平安時代の貴族たちが肌身離さず携帯していた「懸守り(かけまもり)」がみられます。懸守りとは、首からかける御守りで、円筒形の木材を二つに割って内部を切り抜き、その中に護符を納めてまた一つに組み合わせ、錦布で装飾をほどこしたモノです。現存しているモノでは、四天王寺(大阪)の懸守りが国宝に指定されています。

体系化される以前は、日本人のもつアイデンティティの一つ「自然崇拝(アニミズム)」の思想から、石・木・実・牙・骨・葉・羽・貝など“自然を司るモノ”として身につけていたようです。

自然界の脅威(地震・干魃・台風・豪雨・噴火・疫病など)を恐れ=畏怖の念を抱き、自然界の豊穣と偉大さ(巨石・巨木・滝・山・猛獣など)=畏敬の念を抱きました。この畏怖と畏敬の力を味方につけて身につけるようになったのではないでしょうか。自然の力に逆らうのではなく、自然の力を取り入れる・受け入れる・利用する・・・「共に生きる(共生)」という日本人の姿を御守りからも感じることができます。

そして時代は下り、その精神や習慣、風習が現在にいたるまで形をかえながら、綿々と受け継がれてきたのだと思います。

●鎌倉時代・・・貴族から武士へと広まり始めたとされます。

●戦国時代・・・様々な武将が神仏を崇め、戦に臨んだとされます。

●江戸時代・・・広く庶民にまで浸透し、お風呂でも首から木板型の御守りを下げる「肌守り(はだまもり)」もありました。

【狭義での意】・・・「御守り」と表記します。

倭建命(ヤマトタケル)が父・景行天皇の命によって日本全国を平定する旅に出る時の話です。叔母・倭比売命(ヤマトヒメ)は「災難にあった時はこの嚢(フクロ)を開けてみるように。」と御嚢(ミフクロ)、そして草那芸剣(クサナギノツルギ)を授けました。そして実際、災難に巻き込まれ、御嚢の中の火打石、そして剣を使用する事によって倭建命は難を逃れるのですが、それまでの倭建命の心細さ、不安定さ、実際に困難に陥った時の状況を考えると、その御嚢と剣の存在は大きく、精神のよりどころとなる御守りだったかと思われます。ある意味で、母が想いを籠め授けた「災難除け」「戦勝祈願」「身体健全」「旅行安全」の御利益の御守りだったのではないでしょうか。

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